極楽寺の歴史
 「極楽寺縁起」より

時代はさかのぼること、西暦680年頃、役の行者神変大菩薩が、関西第一の霊峰、石鎚山(海抜1982米)に入山せられ、龍王山に籠らせ給い、毎日、不動ヶ滝に身を清め、西方にそびえ立つ霊峰石鎚山を拝しながら、ひたすらに衆生済度、密厳浄土、の実現を祈られつつ、厳しい修行を続けられた。

 数年の後、5月石楠花の咲き誇る頃、遂に満願の日がやって来た。
 石鎚山頂に荘厳なる紫雲たなびき、金色燦然と輝く中、阿彌陀如来を中央に、観世音菩薩、勢至菩薩、の三尊仏が、御来光になられ、天上には妙なる音楽が奏でられ、諸天の善神、盡く周囲に参集せられた。
 これ、まさに、現世浄土が、眼前に展開せられたのでした。

 役の行者は、合掌九拝して、この光景を伏し拝まれ、遂に、長年の念願が仏天に通じたことを、喜ばれたのであった。
 阿彌陀三尊のご来光を、数日に亙って拝された役の行者は、更に祈誓をこめられた。

 「爾今、末法の世が近づくにつれ、衆生は、機根益々衰退し、苦海に溺れる人々が多くなると思うが、それらの人々の心中にある悪魔を退散し、幸福道へ導き給え」、と一心に祈られし所、天地も裂けるような大音響と共に、慈愛あふれる阿彌陀三尊のお姿は忽ちにご変化せられ大忿怒の形相を以って、志現し給いた。
 すなわち、御身体の色は、青黒色(大慈悲を表わす)。背後には、大火炎が燃えさかり、(大智を表わす)。両牙が口の両端に剣のように物すごく、右手には、三鈷杵を握って、肩をいからせ、左手は拳印を結んで腰にあてがい、左足は、どっかと大磐石をふまえ、右足は高く上げ、大地をしっかり蹴り、髪は逆立ちて、乱れ散っている(天地間の悪魔、一切の罪業を粉砕しようとせられている)。
 罪業深重の人々も、この、ご本尊を拝する時、忽ちに浄化せられ、本来の美しい菩提心を発起し、必ずや、諸願成就し、即身成仏の歓喜にひたるであろうと拝された。

 行者は、このご本尊のお姿を永遠に止め、後世の衆生にも接しさせようと、発願せられ、日々、一刀三礼の誠を以って、本尊のお姿を霊木に彫み奉り、中央のご本尊(ご本地、阿彌陀如来)を「石鎚金剛蔵王大権現」とし、両脇立を「龍王吼蔵王大権現」「無畏宝吼蔵王大権現」と名づけられ、ご三体のご本尊様を完成せられ、行者修行の聖地、龍王山に、堂一宇を建立し、阿彌陀三尊と共に、ご三体の権現様を奉祀せられた。

 この寺を、天河寺と名付け、爾来、各地より、大名豪族を初め、一庶民に至る迄、参拝し、修行をし、霊験、日々新らたにして、平安時代より室町時代に至る迄、全盛を極めたのである。
 寂仙、上仙等の高弟が、この地に於いて、大活躍し、又、弘法大師(空海)、光定大師、等の高僧も、比の地に到り、修業せられたのである。

 役の行者は、当時の貴族的宗教に対抗して、平民的宗教を開かれんとし、体現自得(自らの体験を通じて、悟りを開く事)の精神を旨とした、「山岳自然道場」を提唱せられたので、天河寺も、決して華美なものではなかったと思われるが、大名、豪族からの帰依も、厚かったと思われる。

 この、石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代末期には、兵火に依って炎上し、焼失するに至ったのであるが、「康永元年、細川頼春、大軍にて天河寺に陣を敷く」との記録も有るので、諸々の事情により、遂に炎上したものと考えられる。
 そして、その時、蔵王権現御分霊を、瓶ヶ森に祀り、天河寺より山を拝し、且つ、修業のため登るようになったものだが、その後、天長5年、今の石鎚山頂に遷座して今日に至っているが、瓶ヶ森が石鎚権現の山の時代には、天河寺が常住としての役割を、果たしていたものと思われる。
 又、天河寺炎上の折、燃え盛る炎の中で行善大徳は、その高弟宥法師に対し、「阿彌陀三尊を奉持して、直ちに下山し、天河寺山麓に、天河寺の法灯を継承する道場を構え、役の行者の御心を体し、爾今、特別の権力者と結び着かず、庶民信仰を中心とした道場とせよ」と命じ、自らは、炎の中にあって、蔵王権現を拝しつつ、遷化せられたのであります。

 宥法大師は、涙ながらに、燃えさかる天河寺を振り返り振り返り、拝みながら山を降り加茂川を渡り、大保木の地に、天河寺が仰ぎ見られる場所を探し、堂一宇を建立し、ご本尊のご本誓を体して、「極楽寺」と名づけ天河寺の法灯を、そのまま継承するに至ったのである。

 その後、数年が経って、天河寺焼跡を発掘した時、不思議にも、中央石鎚金剛蔵王大権現、御尊像を地中より発見し、そのご威光の盛んなるに改めて感激し、後年、大修理を加え、現在の極楽寺蔵王殿に、1300年の歴史を秘め、奉安され、日々、護摩修業を怠りなく、ご威光は益々熾んである。
 同時に、天河寺は、この時以来、寺号を廃し、石鎚山の総鎮守、八大龍王も、極楽寺に奉安し、役の行者御持仏である、波切不動明王と共に、祀られて、今日に至って居り、その後、極楽寺は、深く庶民の間に親しまれ、大名、豪族との交りをさけて、明治維新に至るまで、政治抗争の難を逃れたことは、役の行者のお心を体した、宥法大徳の心が、生きつづけていたもので、豊臣秀頼、河野家、広島浅野家、等のご祈願はあったにせよ、これに乗じて、権力者の被護を受けなかった事は、確かに賢明なことであった。

 天河寺炎上後、近くにあった、前神寺、横峰時等は、台頭し、石鎚山を背景に、明治維新まで、大いに繁栄したが、明治2年、廃仏毀釈の悪令が発せられ、現、石鎚神社の場所に有った、前神寺は、下寺の医王院(現在の前神寺)に移り、又、横峰寺も、廃寺の憂き目にあった。
 しかし、現在では、両寺とも往時の面影をとりもどしつつ有り、極楽寺は、ひたすらに蔵王権現のご尊体を奉持し続け、阿彌陀三尊をご本尊として、1300年の伝統を守り続けて、今日に至っている。

 極楽寺となって以来も、二度程、火災によって、多くの文献、寺宝を失ったが、ご本尊が、変わらず祀られて来た事は、何よりも有難い事である。
 尚、昭和27年、宗教法人法の定める所により、文部省「石鎚山真言宗」として真言宗の中で、特に、役の行者の石鎚山、開山精神を生かして、一派の開説を届け出し、末寺、教会50有余を持つ、一宗派として、法的に認証され、総本山として、現存している。

 本坊には、阿彌陀三尊をご本尊とし、八大龍王鎮主として、祀られ、護摩堂(蔵王殿)には、役の行者ご自作の、石鎚金剛蔵王大権現を、ご本尊とし、波切不動明王、秘鍵大師、熊野権現、魚藍観世音菩薩、弁財天、文珠菩薩、等が祀られ、全国に、多くの信徒を有し、法灯は日夜輝きつづいている。
 又、未寺の坂中寺は、時代よりの、古刹にして、ご本尊は、秘仏千手観世音菩薩であり、山中に有りながら、日々、奉持し、参拝者と共に守り続けております。
 坂中寺にならび、光昌寺も、天河寺時代よりのものと思われ、今は、黒瀬ダム湖畔に移転し、ご本尊の十一面観世音菩薩を、奉安し、風光明眉である。
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